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大分地方裁判所 昭和29年(ワ)34号 判決

原告 岩田幸成

被告 岩本瑛太郎

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金六万四千四百三十円及びこれに対する本件について訴状が被告に送達された日の翌日以降完済まで年五分の割合による金員を支払うこと。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求めその請求原因として、

原告は荷馬車挽業者であるのでその業務に使用する目的で昭和二十七年三月十六日被告からその所有に属する牡馬鹿毛四才を代金十万円をもつて買受け即日代金を支払うと共に右馬の引渡を受けた。

ところで当時右馬は疾病に患つているということであつたが、しかしその病名は蹄叉腐爛であるということであつて若しその馬の疾患が本当に単なる蹄叉腐爛に過ぎないとしたならば、それは容易に治癒できる性質のもので挽馬としての使用に差支のないものであるが、その引渡の直後獣医の診断で右馬の病名は蹄叉腐爛でなく右後屈腱炎であることが判明し、而して右後屈腱炎の馬では到底挽馬としての役にたたないので、これはいわばその右後屈腱炎という売買の目的の隠れた瑕疵によつて売買の目的を達することができない場合に該当するので、原告はこれを理由として大分地方裁判所に右売買代金返還請求の訴を提起すると共に、その訴の訴状によつて被告に対し右売買契約を取消す旨の意思表示をしたところ同裁判所は同裁判所昭和二十七年(ワ)第一九二号代金返還請求訴訟事件としてこれを受理し、而して、右訴状は右売買から未だ一年を経ていない昭和二十七年五月二十四日被告に送達せられ、これによつて原被告間の本件挽馬売買の契約は解除されたが、原告はなお引続き昭和二十八年三月三十日右馬を被告に返還するまで飼育した。しかるに元来売買契約の解除は始めから全く売買関係が存在しなかつたことに帰せしめる効力を有するから結局前記のように原告が被告から右馬の引渡を受けた翌日である昭和二十七年三月十七日以降右返還の日である昭和二十八年三月三十日まで三百七十九日の間原告は他人の物である被告の馬を飼育したことに帰着し、これは義務なくして他人のために事務の管理をした一種の事務管理であつて、その間原告が支出した馬の飼育費は管理者である原告が本人である被告のために出した有益費たる性質を有するから、原告は被告に対してその償還を請求できる筋合であるところ、その飼育費は一日百七十円(内七十円は飼糧費内百円は飼育の労賃)であつて原告が本件馬を飼育した三百七十九日間の総計は六万四千四百三十円となる。よつて原告は被告に対し右金員及びこれに対する被告がその金員の支払について遅滞に陥つた後である本件について訴状が被告に送達された日の翌日以降完済まで年五分の割合による法定の遅延損害金の支払を求める。

かりに右三百七十九日間原告が本件挽馬の飼育をしたことが法律上事務管理たる場合に該当しなかつたとしても、前記のように契約の解除はその契約が始めから成立しなかつたことに帰せしめる効力を有するものであるから、本件挽馬の所有権は始めから被告に帰属し原告の所有に属したことは一度もないことになり、結局被告は右売買が成立しこれを原告に引渡した日の翌日である昭和二十七年三月十七日以降その返還を受けた昭和二十八年三月三十日まで三百七十九日間原告をして自己の所有に属する馬を何等法律上の原因なくして飼育せしめこれによつて前記のように一日について百七十円の割合による飼育費に相当する利益を受けたものであるから、被告に対しその三百七十九日間の合計六万四千四百三十円を不当利得として返還すべきことを求めると共に、これに対するその支払について被告が遅滞に陥つた後である本件について訴状が被告に送達された日の翌日以降完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払をなすべきことを求めると陳述し、被告の抗弁事実を否認した。〈立証省略〉

被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め答弁として

原告主張の事実中原告が荷馬車挽を業とするものであること、昭和二十七年三月十六日原告がその業務に使用する目的で被告から蹄叉腐爛に罹つているという本件挽馬を代金十万円で買受け同日これが代金として十万円を支払い被告がその馬を原告に引渡したこと、原告が被告に対しその主張のような代金返還の訴訟を提起したこと及びその翌日から昭和二十八年三月三十日被告がその返還を受けるまで三百七十九日間原告がその飼育をしたことはこれを認めるが爾余の原告主張の事実は認めない。と答え

抗弁としてかりに被告が事務管理の費用償還義務または不当利得返還義務として原告主張のような金員を原告に支払うべき義務があるとしても、本件馬が原告の手許にあつた昭和二十七年三月十七日から昭和三十年三月三十日までの間原告はその馬が通常の健康を保つに足りるだけの飼育の方法を執らず僅かに辛じてその生命を保つに足るだけの飼育の方法を執つたに過ぎなかつたため、本件売買の当時は時価十万円の価値のあつたその馬を被告が返還を受けた昭和二十八年三月三十日当時は僅かに時価三万五千円の価値しかない痩馬として仕舞つて被告にその時価の差額六万五千円に相当する損害を被らしめたので本訴においてその損害賠償請求債権と原告の被告に対する事務管理の費用償還請求債権乃至不当利得返還請求債権とをその対当額において相殺すべき旨の意思表示をすると陳述した。〈立証省略〉

理由

原告は荷馬車挽営業を業とするものであるが昭和二十七年三月十六日その業務用の挽馬として牡馬鹿毛四才を代金十万円で買受け同日その代金を支払つたが当時その馬が蹄叉腐爛に罹つているということであつたことについては当事者間に争がない。そして成立に争のない大分地方裁判所の判決である甲第一号証によればその理由の項の記載として右挽馬はその売買の当時単に蹄叉腐爛という病名の疾患に罹つているに過ぎないということであつたが実際には右後屈腱炎という病名の疾患に罹つていたものであつて到底荷馬車用の挽馬としての使用に堪えないものであつた旨の記載があり若しこのような事実が認定されるとすればそれは売主たる被告が所謂瑕疵担保の責任を負うべき場合に該当するけれども本件において原告は右甲第一号証たる大分地方裁判所の判決理由の裏付となつていた証拠を提出しないので右甲第一号だけでは未だ以つて本件挽馬が実際には右後屈腱炎に罹つていて挽馬としての使用に堪えないものであつた事実を認めるに足らず、且つ証人松本信証及び同藤川信夫各訊問の結果は当時右挽馬が単に蹄叉腐爛に罹つていたものでなく右後屈腱炎に罹つていたものであるとする認定を妨げるものであり而して他に原告主張のように本件挽馬に右後屈腱炎という売買の目的物に隠れた瑕疵があつたことを認めるに足りる証拠がないので瑕疵担保を理由として売買が解除されたことを前提とする原告の本訴請求はこの点において既にその理由がないものとしなければならない。しかしながらかりにそうでなく当時右挽馬が本当に右後屈腱炎に罹つていたとして

(一)  被告の事務管理費用償還の責任について判断すると、原告は本件挽馬の売買について売主たる被告の瑕疵担保責任を理由として大分地方裁判所にその売買代金返還請求の訴を起しその訴状によつて被告に対し右売買契約解除の意思表示をしたことについては当事者間に争なく而して前記甲第一号証によれば大分地方裁判所は右訴を同裁判所昭和二十七年(ワ)第一九二号代金返還請求訴訟事件として受理し、而して右訴状は右売買の日から一年を経過しない昭和二十七年五月二十四日被告に送達されたことが認められるのでこれによつて原被告間の右売買は解除されたことになる。而して契約の解除はその解除の時から遡及的に契約が成立しなかつたことに帰せしめる効力を有するけれども元来事務管理は他人のために事務を管理するという管理者の主観的な意図をその基本的概念とするものであるところ前段認定のように昭和二十七年五月二十四日本件契約が解除された後は兎も角その以前すなわち同年三月十六日一応本件契約が成立し、未だその解除がなされていない間は一応その売買契約の効果として本件挽馬の所有権は買主たる原告に帰属し未だその解除の意思表示がなされていないのであるからその間原告がこれを飼育したとしてもその主観的な意図において他人の馬を飼育するという意図を欠くものというべきであり従つて事務管理としてその法律的な要件を欠き前記の契約の日である昭和二十七年三月十六日以降その解除の日である同年五月二十四日までの本件挽馬の飼育費を事務管理の費用としてその償還を求める原告の請求はその請求自体理由がないものとしなければならない。しからばその解除の日である昭和二十七年五月二十四日以隆右挽馬が被告に返還されたこと当事者間に争のない昭和二十八年三月三十日まで原告が同挽馬を飼育したことが事務管理となるであらうか。事務管理は前記のように他人のために事務を管理するということをその法律上の要件とするのみならずその事務の性質に従つて最も本人の利益に適すべき方法によつてその管理を為すことを要するものであり、これを本件について見れば本件挽馬の売買契約が解除されその結果その所有権が売主である被告に返還されて被告の所有物としてのその馬の飼育を始めた原告はこれを健全な挽馬としての健康を維持するに足りるだけの飼育方法を講じた場合においてはじめてその馬を飼育して事務管理をしたということができるものと解すべきところ、原告がかような飼育方法を講じた事実を認めるに足りる証拠なく返つて、証人上ノ木助三郎同阿部喜好及び同松本信証各訊問の結果を綜合すると原告は本件挽馬を被告に返還するまでの間僅かに辛らうじて生存するに足りるだけの飼糧を与え全く不充分な飼育の方法を講じたに過ぎないことが認められるので、かような飼育はこれを目して事務管理と解することを得ないので本件売買契約解除後の原告の飼育もこれを事務管理と認めることができない。

(二)  次に被告の不当利得返還の責任について判断すると前段認定のように本件売買契約は昭和二十七年五月二十四日解除されたこととなり而して契約の解除はその解除の時から遡及的に契約が成立しなかつたことに帰せしめる効力を有するが故に結局前段認定のように本件契約が成立して前記挽馬の引渡を受けた昭和二十七年三月十六日以降その返還の日である昭和二十八年三月三十日まで被告はその所有に属する挽馬を原告に飼育せしめたことに帰着し、たとえその飼育の方法は前段認定のように不充分でその返還の時は辛じて生存を保持している痩馬となつて仕舞つていたとしても右の期間原告が全く飼育をしないでこれを放置していたとすれば同馬は既に死亡したであらうことは明かなことであるから原告をして兎も角も生命を保持せしめるに足るだけの飼育をなさしめたことは被告が法律上の原因なくして原告の財産(飼糧費)及び労務(飼育の)によつて利益を受け、これがため原告に損失を及ぼしたものであつてその不当利得を返還すべき場合に該当する、しかしながら本件においては本件挽馬が健全な挽馬としての健康を保持せしめるに足るだけの飼育方法が執られた場合のいわば抽象的な飼糧費及び飼育労賃に関しては鑑定人藤川信夫の鑑定の結果及び鑑定証人兼証人藤川信夫の証言等の証拠資料があるけれども、前記のように原告の本件挽馬飼育について執つた手段はかような健康を保たしめるに足るものでなく僅かにその生命を保持せしめるに足るに過ぎないものであつたところその実際に要した具体的な飼糧費及び飼育労賃については全く立証を欠くのみならず、たとえその飼育費が前記鑑定及び鑑定人兼証人藤川信夫訊問の結果によつて認められる挽馬を健康の状態に維持せしめるに要する一日百四十九円の割合であつてその飼育期間三百七十九日の合計額が五万六千四百七十一円となつたとしても、前段認定のように原告はその飼育が不充分なために本件挽馬をその飼育によつて痩馬とし而してその結果時価十万円の価値の馬をその返還の当時時価三万五千円の価値しかない馬として仕舞つたことが証人松本信証訊問の結果によつて認められるので、これによつて原告は被告にその時価の差額である六万五千円の損害を与えたものであつて被告は原告に対しその金額に相当する損害賠償請求権を有するものであり而して被告が本訴においてその損害賠償請求権と前記飼育費とをその対当額において相殺する旨の意思表示をしたのであるから、その相殺適状の時期である被告が右損害を被つた本件挽馬の被告への返還の時である昭和二十八年三月三十日に遡つて原告の被告に対する前記五万六千四百七十一円の飼育に相当する不当利得返還請求権は消滅したものと解すべきである。

よつてたとえ本件挽馬について原告の主張するような右後屈腱炎という隠れた瑕疵があつたとしてもなおその事務管理費用償還乃至不当利得返還の請求はその理由がないので結局原告の本訴請求はその理由がないものとしてこれを棄却すべきものとし訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条を適用して主文のように判決する。

(裁判官 菅野啓蔵)

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